エイサーとは

エイサーの変遷

エイサーはそのスタイルからみて戦前と戦後に大きく分けることができる。
戦前はそれぞれの集落、江戸時代以降につくられたヤードゥイ(屋取)集落ごとに旧盆に念仏踊りとしてエイサーは踊られていた。そのころは手踊りが主流であり、衣装も浴衣に手ぬぐいなど自由なスタイルが多かった。

戦後1956年にコザ市における全島エイサーコンクールの開催をきっかけに「魅せるエイサー」が意識されるようになり、女性の参加、衣装の変化、太鼓主体の踊りへの変化、従来の輪踊りから複雑な隊列踊りへと変化して現在の形になっていった。

本来の道ジュネーで踊られるエイサーに加え、観客に見せるためのエイサーのしめる割合が大きくなり、ダイナミックな動きの型や衣装もカラフルなウッチャキ(打ち掛け)、長サージ(頭巾)が用いられるようになった。より優れた演舞を競い合う今日のエイサーでは、園田エイサー隊によっていち早く取り入れられた斬新な衣装と演舞が、その後のエイサーを大きく変えることとなった。

沖縄市のエイサー(沖縄戦以前)

沖縄市のエイサーがいつのころから始まったのかは不明だが、1907年の新聞記事によると、当時の物品品評会の余興で、胡屋村のエイサー、越来村の村のエイサーが踊られていたことが確認できる。
旧暦のタナバタ(7月7日)頃からムラヤー(村屋)またはクラブ(倶楽部)と呼ばれる公民館やサーターヤー(砂糖小屋、墓のナー(庭)などで、手合わせ程度の簡単な練習を行い、本番は、旧暦の7月15日のウークイの日から3日間という集落が多かった。各集落により差はあるが約15歳から30歳前後までの、およそ20人~70人が踊り手として参加した。また、エイサーに参加できない場合は、罰金を徴収される集落もあった。当時女性は、20歳頃までには結婚していることが多く、結婚と同時にエイサーをやめることが多かったようだ。

戦前は、手踊り中心のエイサーが多く、ジウテー(地揺)2~6人、締太鼓2~8個、大太鼓は多くても1~2個、また大太鼓はない集落も多かった。また当時の大太鼓は、大変重く2人で交代しながら担当した集落もある。また、山里、登川、池原、比屋根にはソーグ(鉦鼓)が一人、古謝にはソーグが4~5人いたという。衣装は、特に青年会で揃えるということはなく、各自がもっているバサー(芭蕉)やクンジー(紺地)の着物を着て踊った。

15日は、ムラヤー(村屋)やカミヤー(神屋)をスタート地点とし、各家庭を1軒1軒まわった。集落内の家庭を練り歩くことを、道じゅねー、シママーイ、チネーマーイ等と呼んだ。
旧盆のエイサーが終わると、旧盆で集めたお酒で、慰労会が行われた。この慰労会では、エイサーの踊りおさめが行われ、また、村芝居のひとつや獅子舞、自由芸等が披露された。
地域により差はあるが、日中戦争(1937年)の前後に、エイサーは中断されていった。

出典:沖縄市立郷土博物館第36回企画展「沖縄市のエイサー 伝統の継承者たち」 2008
沖縄市立郷土博物館

沖縄市のエイサー(沖縄戦以降)

沖縄市のエイサーは、沖縄戦を境に大きく変化した。戦前、エイサーの踊られていた焼廻、中原、泡瀬などをはじめとして、多くの地域の住民が米軍の基地用地接収により移住を余儀なくされた。戦後、エイサーが復活する時期も地域により違いがあるが、1947年から1950年前半にかけて徐々に復活が始まった。

戦前は、ウークイが終わってから道じゅねーを開始していたが、戦後になると、旧暦13~14日から道じねーを行う地域が増えてきた。現在沖縄市では、13日のウンケーから道じゅねーをはじめるところがほとんどである。毎晩8時頃から公民館に集まり、集落内を巡る。3日間で廻りきれなかった場合には、16日も道じゅねーを行う地域もある。

戦後のエイサーの復活から、次の転換期をなったのは、1956(昭和31)年からコザ市で始まった全島エイサーコンクールである。全島エイサーコンクールは、コザ市商工会が発案し、市と共催した。将来の街の発展に寄与する中部独特の行事として、角力や闘牛と併せて実施された。このコンクールで踊りを競い、それを多くの観客に見せる場ができたことで、参加団体に地域の祖先送りのエイサーという意識に加えて、地域外の観客へ見せるエイサーという意識がプラスされた。「見せる」という意識が加わったことで、今まで手踊り主体だった踊りから太鼓主体のエイサーへと変化した。また、衣装も統一され、男性は頭にマンサー(長鉢巻)、体にウッチャキ(陣羽織)をはおり、足にケハン(脚絆)をつけるというスタイルが定着した。また、今まで男性のみのエイサーだった地域も女性の参加者も増えていった。また、旧盆で踊るときは、輪になって踊るのが一般的だったが、全島エイサーコンクールが開催されるようになってからは複雑な隊列踊りも取り入れられるようになった。

全島エイサーコンクールは回を重ねるごとに観客は増え続け、応援団も熱をあげてくるようになった。それにより、コンクールの評価基準へクレームがくるようになり、1977年からは競い合いのない「まつり形式」となった。

現在では、毎年約20万人以上動員するイベントにまで成長し、沖縄の夏の風物詩としても定着し、沖縄市の青年会は県外へ招かれ、エイサーを踊る機会も増えている。

出典:沖縄市立郷土博物館第36回企画展「沖縄市のエイサー 伝統の継承者たち」 2008
沖縄市立郷土博物館

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